警察の歴史
江戸時代には警察に相当する役所として町奉行所があった。江戸には南北の町奉行が、諸国には地名を冠した遠国奉行があり、その職員である与力、同心は現在の警察官に相当した。ただし、与力、同心の人数は人口に対して非常に少なく、江戸の人口100万人(うち町方の人口は半分の約50万人)に対して警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて30人にも満たなかった。
この人数で江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引と呼ばれる手先を雇い、警察業務の末端を担わせていた。江戸の岡っ引は約500人、その手下の下っ引を含めて3,000人ぐらいいたという。また、重罪であった放火、押し込み強盗などを取り締まる火付盗賊改方も断続的に設置された。
明治維新によって江戸幕府が崩壊すると、諸藩の兵(藩兵)が治安維持に当たった。しかし、藩兵は純然たる軍隊であり、警察ではなかった。1871年、東京府に邏卒(らそつ)3,000人が設置されたことが近代警察の始まりとなった。同年、司法省警保寮が創設されると、警察権は同省に一括され、東京府邏卒も同省へ移管された。
以後の警察は、国家主導体制のもと、管轄する中央省庁の権限委任も多く行われたが、最終的に内務省に警察権が委任され、内務省方の国家警察・国家直属の首都警察としての警視庁と、各道府県知事が直接管理下に置く地方警察の体制に落ち着いた[1]。
1933年に大阪市の天六交差点で起きたゴーストップ事件(天六事件)にて、陸軍と警察の大規模な対立が起こり、その後、現役軍人に対する行政措置は警察ではなく憲兵が行うこととされるようになり、軍部が政軍関係を超えて次第に国家の主導権を持つきっかけのひとつとなった。
第二次世界大戦後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により、それまでの中央集権的な警察組織が廃止され、1948年に旧警察法が定められる。旧法では、地方分権色の強い国家地方警察と自治体警察の二本立ての運営で行われるが[2]、1954年には現・警察法に改正され、国家行政組織の警察庁と地方組織の警視庁・道府県警察に統一されて今日に至っている[3]。