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黄老思想は、中国、戦国時代から漢代初期にかけて流行した道家の一学派の思想であり、その学問を黄老の学という。黄老道とも言う。黄帝を始祖とし老子を大成者とした

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黄帝

   
黄帝
黄帝
黄帝

黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年紀元前2448年



概要

代に司馬遷によって著された歴史書『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は、氏は軒轅氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。少昊昌意の父。

彼以降の4人の五帝と、の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろう。さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。また、代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られる。

だが、辛亥革命後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。これに並行して日本でも同様の議論が起こり、白鳥庫吉市村瓉次郎飯島忠夫らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。

その一方で黄帝は中国医学の始祖として、現在でも尊崇を集めている。漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けるのが流行した。 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も、黄帝の著作とされている。
中国共産党は、政治的な民族概念「中華民族」の始祖は、黄帝であるとして崇拝を強めている[1]

医者としての黄帝

前述の『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』は黄帝の著作と信じられ、これは東洋医学の始まりとなった(書については黄帝内経参照)。中国鍼灸各家学説(1987,日本語訳2003)を執筆した魏稼は、黄帝の師は、岐伯である事から、中国最古の医学流派を岐伯黄帝派と名づけた[2]

この学派の創始者は岐伯で、中心人物であり、黄皇が岐伯、伯高、小兪を訪ねて鍼道が誕生したと晋の皇甫謐『甲乙経』に記載がある[2]。これらが、漢方およびはり灸らの中国原初とみなされた。なお、日本のユンケル黄帝液は、東洋医学発祥を記してこの黄帝から名付けられている。

黄帝の書

前一世紀の漢書『芸文志』には、下記のように分類されている。

道家

  • 『黄帝四経』四篇、『黄帝銘』六篇、『黄帝君臣』十篇、『雑黄帝』五十八篇

神僊

  • 『黄帝雑子歩引』十八巻、『黄帝岐伯按摩』十巻、『黄帝雑子芝菌』十八巻、『黄帝雑子十九家方』二十一巻

天文

  • 『黄帝雑子気』三十三篇

五行

  • 『黄帝陰陽』二十五巻、『黄帝諸子論陰陽』二十五巻

雑占

  • 『黄帝長柳占夢』十一巻

医経

  • 『黄帝内経』十八巻、『黄帝外経』三十七巻

経方

  • 『神農黄帝食禁』七巻

房中

  • 『黄帝三王陽方』二十巻

正史における記載

  • 史記 巻一 五帝本紀第一

老荘思想


道家から転送)
         
水牛に乗る老子
老荘思想(ろうそうしそう)は、中国で生まれた思想道家の大家である老子荘子を合わせてこう呼ぶ。道家の中心思想としてとりわけ魏晋南北朝時代に取りあげられた。
老荘思想が最上の物とするのは「」である。道はと同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もある。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。
老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれた。玄学は王弼何晏西晋郭象らが創始した。


歴史

老荘思想は老子から始まるが、老子はその生涯があまり良く解っておらず、実在しなかったという説もある。
老荘の名以前に黄老(こうろう)があり、戦国時代から初に流行した。
老子と荘子がまとめてあつかわれるようになったのは、前漢紀元前139年に成書された百科的思想書の『淮南子』(えなんじ)に初めて見え、魏晋南北朝時代のころの玄学において『易経』『老子』『荘子』があわせて学ばれるようになってからであろう。 老荘思想は道家思想とほぼ同義に用いられるが、これは前漢のころには信頼できる道家の書物が、老子と荘子くらいしか残っていなかったためである。

儒教が国教となってからも老荘思想は中国の人々の精神の影に潜み、儒教のモラルに疲れた時、人々は老荘を思い出した。特に魏晋南北朝時代においては政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのは非常に困難であった。このため、積極的に政治に関わることを基本とする儒教よりも、世俗から身を引くことで保身を図る老荘思想が広く高級官僚(貴族)層に受け入れられた。加えて仏教の影響もあり、老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす清談が南朝の貴族の間で流行した。

清談は正始の音に始まり、西晋から東晋竹林の七賢嵆康阮籍山濤向秀劉伶阮咸王戎)が有名である。ただし、竹林の七賢が集団として活動した記録はない。
老荘思想は仏教とくに禅宗に接近し、また儒教(朱子学)にも影響を与えた。

道教との関係

フランスの中国学者アンリ・マスペロ(東洋文庫『道教』の著者)によれば、老荘思想と道教は連続的な性質を持っているとする。しかし日本の研究者の間では、哲学としての老荘思想と道教はあまり関係がないという説が一般的である。

道教に老荘思想が取り込まれ、また変化している。一般に老荘思想はものの生滅について「生死は表層的変化の一つに過ぎない」と言う立場を取るとされる。不老長寿の仙人が道教において理想とされることは、老荘思想と矛盾しているように見える。しかし、道教の思想において両者は矛盾するものではないとされている。

日本に於いてだけでも、時代に依って道教と老荘思想の意味・関係は変化しつづけたが、それは道教研究のここ百年での深まりと、老子・荘子各々を把握解釈する者の営為に依存している。





史記にあらわれる故事成語

以下は初出を特記しない限り『史記』を原拠とするものである。
  • 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 巻48・陳渉世家
  • 「唇破れて歯寒し」 巻39・晋世家、巻46・田敬仲完世家。初出は『春秋左伝』僖公五年
  • 「狡兎死して走狗煮らる」 巻41・越王句践世家、巻92・淮陰侯列伝。初出は『韓非子』内儲説下
  • 「先んずれば人を制す」 巻7・項羽本紀
  • 「将に将たり」 巻92・淮陰侯列伝
  • 「断じて行えば鬼神もこれを避く」 巻87・李斯列伝
  • 「智者も千慮必ず一失あり。愚者も千慮また一得あり」 巻92・淮陰侯列伝
  • 「忠言耳に逆らい、良薬口に苦し」 巻55・留侯世家、巻108・淮南衡山列伝(『史記』では「毒薬」)。初出は『韓非子』外儲説左上
  • 「天道是か非か」 巻61・伯夷列伝、巻63・老子韓非列伝
  • 「桃李もの言わざれど下おのずから小径(こみち)をなす」 巻109・李将軍列伝
  • 「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらし、勝ちを千里の外に決する」 巻130・太史公自序。張良の伝記で言及するものは『漢書』巻40・張良伝
  • 「匹夫の勇、婦人の仁」 巻92・淮陰侯列伝。「匹夫の勇」の初出は『孟子』梁恵王下
  • 「寧ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」 巻69・蘇秦列伝
  • 臥薪嘗胆」 巻41・越王句践世家(「嘗胆」のみ。「臥薪嘗胆」は『十八史略』春秋など)
  • 管鮑の交わり」 巻62・管晏列伝。初出は『列子』力命
  • 「完璧」 巻81・廉頗藺相如列伝
  • 鴻門の会」 巻7・項羽本紀、巻8・高祖本紀、巻55・留侯世家、巻95・樊噲列伝
  • 「国士無双」 巻92・淮陰侯列伝
  • 「左袒」 巻9・呂太后本紀、巻10・孝文本紀
  • 「屍を鞭打つ」 巻66・伍子胥列伝
  • 「鹿を馬となす」(「馬鹿」の語源という説がある) 巻6・秦始皇本紀
  • 四面楚歌」 巻7・項羽本紀
  • 酒池肉林」 巻3・殷本紀、巻123・大宛列伝。初出は『韓非子』喩老
  • 宋襄の仁」 巻39・晋世家、初出は『韓非子』外儲説左上
  • 「背水の陣」 巻92・淮陰侯列伝。初出は『尉繚子』天官
  • 刎頸の交わり」 巻81・廉頗藺相如列伝、巻89・張耳陳余列伝、巻92・淮陰侯列伝
  • 「右に出ずる者なし」 巻104・田叔列伝
  • 「流言蜚語」 巻107・魏其武安侯列伝
  • 「怨み骨髄に入る」 巻5・秦本紀
  • 「曲学阿世」 巻121・儒林列伝
  • 「士は己を知る者のために死す」 巻86・刺客列伝
  • 「雌雄を決す」 巻7・項羽本紀
  • 「傍若無人」 巻86・刺客列伝
  • 「満を持す」 巻41・越王句践世家
  • 「立錐の地なし」 巻55・留侯世家
  • 「一敗、地に塗る」 巻8・高祖本紀
  • 「百発百中」 巻4・周本紀
  • 「鳴かず飛ばず」 巻66・淳于髠列伝





黄老思想

   
黄老思想(こうろうしそう)は、中国戦国時代から代初期にかけて流行した道家の一学派の思想であり、その学問を黄老の学という。黄老道(こうろうどう)とも言う。黄帝を始祖とし老子を大成者としたことからこのように称される。
君主が天道に背く君主の勝手な行動をとることを禁じ、また秩序維持のために社会に過度に干渉することは避け、さらに統治にかかるコストを下げるべきとする考えであり、漢代初期においては最も影響力をもった思想であった。

『黄帝四経』や『老子』をその思想的根拠・教典とする。『史記』によれば、稷下の学者である慎到田駢・接子・環淵らがその代表的人物である。また、『史記』老子韓非子列伝では申不害韓非子を「黄老に本づき刑名をたっとぶ」とあり、法家の刑名思想を黄老に由来すると考えている。そこで黄老刑名の学とも呼ばれる。

漢代初期においては曹参・汲黯・田叔といった人物がいる。また景帝の母である竇太后は黄老の書を好んだという。『史記』楽毅列伝に曹参に到るまでの黄老の学の系譜が書かれており、河上丈人→安期生→毛翕公→楽瑕公→楽巨公→蓋公→曹参となっている。このうち、楽巨公と蓋公は実在が確かめられる人物である。
1973年長沙馬王堆漢墓三号墓から出土した『経法』『十六経』『称』『道原』といった帛書は『黄帝四経』と呼ばれ、黄老思想の貴重な研究材料となっている。

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